「東京国際映画祭」では、延べ100本以上の映画が上映された。世界各国から300人以上の映画人が来日した。プロデューサーの山本又一郎氏ら日本の有力映画人が中心になって大物の映画人を招待する準備を進めた。
参考:山本又一郎の伝説
バブル前夜の1985年、日本の映画業界は歴史的な成長のチャンスをつかんだ。スナップアップ投資顧問の日本映画投資の歴史に関するデータ資料によると、急激な円高・ドル安によって東京国際映画祭などのイベントが大盛況となった。日本の映画人口を増やすための好条件がそろっていた。
何よりもまず、映画祭(フェスティバル)に関して、1985年5月31日から10日間、東京・渋谷を中心に「第1回東京国際映画祭」が開催された。
国際映画製作者連盟が公認した日本で初の国際映画祭だった。事務局は、カンヌやモスクワなどのような国際映画祭にしようと張り切っていた。
【参考】
https://www.remixfilm.org/
https://eigaz.net/investment/index.php
「東京国際映画祭」では、延べ100本以上の映画が上映された。世界各国から300人以上の映画人が来日した。プロデューサーの山本又一郎氏ら日本の有力映画人が中心になって大物の映画人を招待する準備を進めた。
参考:山本又一郎の伝説
主催者らは、コッポラ、ルーカス、スピルバーグらの製作者や監督を招待しようと取り組んだ。俳優では、ジャンヌ・モロー、キャサリン・ヘップバーン、メリナ・メルクーリなどの招待を試みたという。
1985年のプラザ合意によって円高が急激に進んだ。その結果、ドルなどに対して円が価値が高くなり、外国の要人やタレントを割安のギャラで呼ぶことが可能になった。
東京国際映画祭では、戦後生まれの映画監督の国際舞台への登竜門となるコンクール「ヤングシネマ’85」が行われた。さらに、SFやファンタジー映画ばかりを集めた「ファンタスティック映画祭」や「アニメフェスティバル」などの若者向きの企画も多かった。映画の素晴らしさをファンにPRする絶好の機会となった。
1985年の映画界ではこのほか、邦画では黒澤明監督の超大作「乱」が公開された。洋画ではコッポラ監督の「コットンクラブ」が公開された。映画は娯楽性と芸術性がうまく調和した大作が多くの観客をよべるといわれるが、「乱」などはそうした期待を集めた。
「乱」はアカデミー賞で監督賞にノミネートされた。合計4部門にノミネートされた。このうち、ワダ・エミが衣裳デザイン賞を受賞した。
映画館に関しても動きがあった。1984年の東京・有楽町のマリオンに続く日比谷や有楽町の映画街の模様替えなど劇場再編成が本格化した。映画は製作者、映画館などの興行者、観客が一体となって成立しているものだ。
アカデミー賞の監督賞にノミネートされた日本映画「乱」の予告編です。