にっぽん温泉遺産100 「箱根温泉郷」トップ10に(神奈川)

(2002年12月8日、読売新聞)

「湯河原」も選ばれる

旅行読売出版社が選定した「にっぽん温泉遺産100」(国土交通省、環境省後援、読売新聞社協力)がこのほど決まり、2002年12月2日発売の月刊「旅行読売」誌上で発表された。後世に残す価値を有する温泉地100か所に県内からは、「箱根温泉郷」と「湯河原温泉」が選ばれた。「箱根温泉郷」は上位10か所に入った。

箱根七湯
一夜湯治

箱根温泉郷は、箱根町の箱根山一帯にある温泉群。江戸時代の中期には、早川の渓谷沿いを中心に「箱根七湯」の名で知られ、医療を目的とした長期間の湯治から物見遊山が主体の「一夜湯治」に移り変わり、すでに団体客でにぎわいを見せていた。現在では、交通網の整備や温泉開発も進み、箱根20湯とも、21湯とも呼ばれている。

箱根小涌園ユネッサン

各温泉地で歴史が異なるように、泉質も単純泉、硫化物泉、硫酸塩泉など様々なほか、2001年元日には水着で入れる温泉も備えた温泉テーマパーク「箱根小涌園ユネッサン」も開業した。旅館・ホテル、保養所など654軒があり、豊かな自然などと相まって2001年は1940万5000人の観光客が訪れた。2001年度の入湯者数は602万6604人。

山口昇士町長

山口昇士町長は「歴史の積み重ねと、箱根を愛する来訪者の蓄積があっての評価で、非常にありがたい。選定を重く受け止め、箱根らしさを残しながら、期待にこたえていきたい」と話している。

独歩の湯
弱食塩泉

湯河原温泉は、湯河原町の藤木川の渓谷沿いに広がる温泉地で、泉質は弱食塩泉。日本最古の歌集「万葉集」にも「あしがりのとひのかふちにいづるゆの よにもたよらにころがいはなくに」と詠(うた)われている。旅館や保養所など247軒のほか、万葉公園内には2001年元日にオープンした町営の足湯施設「独歩の湯」もあり、2001年は約566万5000人の観光客が訪れた。2001年度の入湯者数は97万5310人。

内外で愛された湯と景観 箱根(日本遺産と温泉の旅)

(2003年1月29日、朝日新聞)

箱根温泉郷の入り口

湯本

……早朝に品川をたって保土ケ谷か戸塚に、2日目は小田原に泊まって、3日目に初めて湯本に着く。病人などはもう1日……。

岡本綺堂
湯治の旅

明治生まれの作家、岡本綺堂(きどう)は、江戸時代の東京から箱根湯本までの湯治の旅を、1931年(昭和6年)7月23日の朝日新聞にこう記している。もちろん全行程歩き。箱根温泉郷の入り口となっている湯本まででさえ、こんなに時間がかかった。

箱根駅伝
芦ノ湖

正月2日の箱根駅伝は、湯本からさらに急坂を芦ノ湖畔まで、都心からだと110キロの距離を5時間半ほどで駆け抜ける。2つの時間はちょっと比較のしようがないが。

外国人客の増加

綺堂が幼かった明治の初めごろ、横浜に居留していた外国人は、まだ移動を制限されていた。温泉での病気治療を理由に許されたのが、箱根、熱海への旅行だった。かごが乗合馬車に代わり、道路が整備されるにつれ、湯本を訪れる外国人客は増えた。富士山の景観と、豊かな温泉は大きな魅力だったのだ。

宮ノ下温泉

富士屋ホテル

湯本とともに箱根七湯(ななゆ)の一つに数えられる宮ノ下温泉に、外国人専門の旅館として富士屋ホテルが開業したのは、1878年(明治11年)。日本のリゾートホテルの草分け。箱根が国際的観光地として発展する先駆けとなった。

唐破風(からはふ)の屋根
ベルツ水

ホテルは和洋折衷の建築。外観は、明治から大正初期の面影を残しているという。天守か仏閣を思わせる重厚な唐破風(からはふ)の屋根に圧倒される。宿泊客サイン帳には、チャプリンやヘレン・ケラーなど著名人の名が。日本医学の父といわれるドイツの医学者ベルツも、温泉療養法の研究で明治の箱根をたびたび訪れた。富士屋ホテルに滞在中、女性従業員の手荒れを見て調合したのが「ベルツ水」。その後長く女性に愛されることになる。

豊富な源泉かけ流し

富士屋ホテルは敷地内に豊富な源泉がわき出している。浴場や室内温泉プールもあるが、各室にある風呂で温泉が楽しめる。すべて循環式ではなく、かけ流し式だ。

ツアー

箱根、芦ノ湖、小田原を回り、富士屋ホテルに泊まる1泊2日の旅が、2003年3月26日水曜発と2003年3月27日木曜発の2回ある。館内をホテルスタッフが解説しながら案内。さらに、貸し切り宴会場(カスケードルーム)で、料理長による料理解説のあと、フルコースの夕食。宿泊は1936年建築の花御殿・デラックスツインルーム。JR小田原駅に午後2時集合。2、3人1室で1人3万6800円、1人1室で4万6800円。

山歩き 「俳人の旅」を気ままに

(1992年10月4日、読売新聞)

60で知る楽しみ

東京都台東区谷中の長久院住職、橘純雄さん(67)は60歳になってから山歩きを始めた。早朝、寺の古いくぐり戸を出て、上野公園から、上野駅に向かう。長身の背にリュックを負う。園内でラジオ体操をしているおばさんから声がかかる。「また山ですか。和尚さん、気をつけて下さいよ」

山歩き
大菩薩峠や駒ヶ岳

1992年8月下旬は大菩薩峠に、1992年9月初めには箱根の駒ヶ岳を歩いた。最寄り駅へ特急や新幹線を利用する。山での時間を多く取るためだ。駅で一度必ず寺に電話を入れる。通夜の日程が急に入ることがある。しかし、登り口に向かうバスに乗り込めば、一人の気ままな山歩きが始まる。

3つの楽しみ

自然、俳句、ビール

「山の自然を楽しみ、俳句を作る楽しみ。そして、帰ってビールを飲む楽しみ」の3つの楽しみがあるから山に行くと言う。

一人旅は平日に

約500軒の壇家は谷中かいわいから関東1円に広がる。土、日は法事で日程が詰まる。当然のように山歩きは平日、それも日帰り、一人旅が多くなる。

だれにも会わない

「俳句を作りながらですから、その方がいいこともあります。下山するまでだれにも会わないこともありますよ」

老後の楽しみ

俳句は50歳の春から始めた。「境内に咲いていたボタンの花弁がハラッと散るのを見た時、“自分も70歳まであとはわずか”と感じ、何か老後の楽しみを考えないと、と急に思い立って」

真言宗
社会科教師

江戸慶長年間に開基の真言宗の寺。8人きょうだいの長男。小学6年で得度。大学卒業、終戦後間もなくから地元の中学校の社会科教師になる。教壇で一番下の弟も教えた。「そのせいか、生徒はみんな自分の弟、妹みたいで、私は、ガキ大将みたいな教師でした」。転勤を一度もしないで17年間勤め、40歳で退職したが、その後PTA会長にもなった。

上野公園

俳句は、PTA仲間やかつての同僚から教わった。句を詠む所は境内から上野公園、そして山へと広がった。多作で、毎月30句ほど自選する。「自分に俳句がなかったら、私の後半生は、どんなに無味乾燥なものになっていたかと思うと、今、ゾッとします」

句集を自費出版

1991年夏、3冊目の句集「無垢童子」を自費出版した。

岩鏡

「朝日岳ガレ場鎖場岩鏡」

山の句
宗教的な響き

「爽やかに四顧の山の名告げ合へる」など山の句も掲載されているが、 「身の毒の吹き出す如し山の汗」 「黄泉路とはかかるものかも霧山路」などには宗教的な響きが感じられる。

死そのものは、安らかなもの

「死そのものは、安らかなものだと思います。みんなは一時の苦しみが怖いのかもしれませんね。私は、山を歩いて、さりげなく死ねたらと思っています」

ストレッチャー
手術時の俳句

俳句を始めたころ、目の手術をした。その患者運搬台の上で 「蹠(あしうら)に秋風あたるストレッチャー」 と詠んだ。

おれは坊主だ。

「もし、ここで動揺したらみっともないぞ。おれは坊主だ。ガタガタすることはない、と思ったら、妙に落ち着きました」

法事
楷書の俳人

前庭に秋の花が咲き乱れる庫裏。自然を見つめながら生きる「楷書の俳人」と仲間がいう橘さんは、「1992年10月は谷川岳に」と法事の日程と天気図とにらめっこする。