松竹の歴代社長の実績・評判・評価

名前 評判・実績・評価など

大谷竹次郎

(おおたに・たけじろう)

【期間(1回目)】
1920年11月~
1925年8月

【生まれ】
1877年12月13日

【死去】
1969年12月27日。享年92歳。

※兄弟で松竹を創業。3度にわたり社長を務めた。

子供時代

双子の兄・白井松次郎と共に、芝居小屋の売店の子として生まれた。 少年時代、父の店を手伝いながら、芝居を見て育った。 「明治の劇聖」と呼ばれた9代目市川団十郎と、「大阪の顔」とされた初代中村鴈治郎の大顔合わせなどを目の当たりにした。

創業

創業は1895年(明治28年)。当時18歳。京都・新京極の「阪井(さかい)座」の仕打ち(演劇プロデューサー)となった。阪井座の出資者に名を連ねていた父の代理だった。これが松竹の創業と位置づけられている。

京都の「阪井(さかい)座」

1896年1月、実川延二郎(後の2世延若)一座の公演を行い、大成功を収めた。その後、興行を任されるようになる。4年後に劇場を買収した。

利権を一掃

阪井座の劇場を買収した兄弟は、まず興行に寄生していた用心棒らを利権ごと一掃した。

当時の芝居は、手洗いや座布団の貸し出しなど何かにつけて客から金を取り、入場料を含めた多くが彼らに流れていた。

「経費をかけて良い芝居を作ることで集客が見込める。そのためには、非効率な運営を一新する必要があった」と言われている。脅迫が絶えず、竹次郎は京都時代、護身用のピストルを持ち歩いていたという。

名優との信頼関係

名優との信頼関係も大切にした。

1904年(明治37年)、劇界は不振を極めた。

初代・中村鴈治郎が出演した師走の顔見世も、千秋楽の3日前に打ち切られた。

兄弟は鴈治郎の懇願を受けて急きょ年末、所有する新京極の劇場で一座の公演を引き続き開催。

興行は大入りで、名優の面目を保った。

歌舞伎への愛情

劇場の初日が遅れることは茶飯事。

出し物や役者も前宣伝通りにそろわず、上演時間も日によってバラバラだった。

興行は当たりはずれが大きく、劇場主は金もうけしか関心がない。

ところが、兄弟は劇場で両親が営む売店を幼少時から手伝っていたこともあり、芝居そのものに親しみを覚えていた。接客の大切さも肌で感じていた。

兄弟はけいこに立ち会って意見を言い、小道具が気に入らなければ自分の家から持ってきた。この熱意に役者たちが感激した。

演劇改革

松竹以前の芝居は江戸以来、各座がそれぞれ役者を抱えていた。

金主(スポンサー)を確保して興行を打つ形で行われていた。当たればロングランで大きくもうかるものの、不入りならば打ち切り。興行は浮き沈みの激しい商売であった。

俳優と専属契約

兄弟は、すべての歌舞伎俳優と専属契約を結んだ。現在の興行形式を完成させた。

旧態の芝居興行を近代化

兄弟は、旧態の芝居興行を近代化した。具体的には以下の施策を断行した。

  • 月替わりの連続興行
  • 定刻上演
  • 給料制導入
  • 劇場の高級化

買収攻勢

兄弟は、京都・四条の「南座」、大阪の「朝日座」「中座」などの劇場を次々と買い取った。

このうち「南座」では、買収後の顔見世として「東西合同大歌舞伎」と銘打ち、東西の名優が華を競う現行方式に一新した。京の風物詩に活況が戻った。

さらに、1909年(明治42年)、兄弟は衰退の一途をたどる大阪「文楽座」を引き受けた。人形遣いや太夫らの配役を実力制に改革し、外国使節を招待して日本文化をアピールした。

1910年頃(明治末)までに2人は関西のほとんどの劇場を傘下に納めた。

東京へ進出

1910年(明治43年)、東京の「新富座」と「本郷座」を買収して関東へ進出する。

1913年(大正2年)にはついに「歌舞伎座」の経営権を手に入れた。

関西を兄・白井、東京を弟・大谷が担当

このころから、関西を白井、東京を大谷が担当。実権を二分するようになった。

1920年代(昭和初め)までに東西のほとんどの劇場と歌舞伎俳優を支配下におさめる。一大演劇トラストを築き上げた。

商業演劇システムを確立

こうした松竹は、企業として複数の劇場を総合して運営。興行日数を月単位に定めるなど経営を安定させた。日本独特の商業演劇システムを確立した。

映画への進出

1920年(大正9年)2月、「松竹キネマ合名社」を設立。映画事業に進出する。

末弟・信太郎が松竹キネマ社長に

「松竹キネマ」の初代社長には、大谷兄弟の末弟である白井信太郎が就任した。

さっそく東京・蒲田に撮影所を開設。本場アメリカ流の映画作りを取り入れて製作に乗り出した。

なお、1920年11月に「帝国活動写真」を設立し、翌年1921年秋にには「松竹キネマ株式会社」と改称するとともに、松竹キネマ合名会社を合併した。

内容

東京・蒲田に開設した「蒲田撮影所」は、邦画の一大拠点となる。

当時の映画界は日活がトップに立っていた。松竹は日活に対抗すべく、ハリウッドで働いていたカメラマンのヘンリー小谷、田中欽之、美術のジョージ・チャプマンらを指導者に迎えた。

俳優学校

また東京・銀座の歌舞伎座裏の芝居茶屋「梅林」の2階に、「キネマ俳優学校」も設けた。

ここには、新劇界の小山内薫を校長に招いた。最初の生徒には伊藤大輔(のちの監督)、鈴木伝明、東栄子らがいた。

第一作は、1920年の「島の女」

制作の第1弾は、翻訳劇の演出家で俳優でもあった村田実が監督した「奉仕の薔薇」だった。しかし、編集技術の未熟さなどから完成度が低く、お蔵入りとなった。

実際に公開された第一作は、1920年の「島の女」(長さ30分)だった。監督はヘンリー小谷&木村綿花。1920年11月1日、山田耕筰指揮の交響楽団の演奏とともに、東京・歌舞伎座で公開された。

1921年4月にヘンリー小谷監督・脚本・撮影の「虞美人草」では、栗島すみ子がアイドルとなった。

野村芳亭(ほうてい)監督

中には失敗作もあり、試行錯誤を重ねたが、一人の男の登場が大きな後押しとなった。野村芳亭(ほうてい)監督である。

京都出身の野村芳亭監督は代々「絵師」だった。芝居小屋の看板などを手がけていた。

父・芳国がシネマトグラフを輸入した稲畑勝太郎と親交があったことから、10代のころから映画興行を手伝い、自ら撮影もしていた。

デビュー作「夕刊売」が大ヒット

1921年5月、野村芳亭監督のデビュー作「夕刊売」が大ヒットする。以来、野村監督は松竹映画の中心人物となった。

この後、池田義信、牛原虚彦、島津保次郎らの監督、栗島に続く英百合子、川田芳子、梅村蓉子らのスターが続々と現れた。

関東大震災で大被害

1923年9月1日の関東大震災では大きな被害を受けた。オープン・セットを壊して炊き出しをしたり、「堀部安兵衛」の長屋のセットで避難者たちが寝泊まりした。

製作の中心は京都の下加茂撮影所に移された。京都に移っていた社員たちが蒲田に戻ったのは1924年だった。

城戸四郎氏の時代

1924年7月には野村芳亭撮影所長に代わって、城戸四郎常務が所長に就任する。ここから「明朗蒲田調」と呼ばれる松竹映画が本格的に確立されていく。

野村芳亭所長は新派悲劇的な題材を好み、自らもそうした作品を監督した。それに対して城戸所長は「娯楽とは明るい健康なもの、おもしろおかしく笑いながら人生の勉強ができるもの」と説いた。後に「大船調メロドラマ」と呼ばれるようになる作風だ。

城戸所長がまず取り組んだのは、脚本部の充実だった。所長室のほかに脚本部室にも自分の席を設け、脚本部員を相手に映画論をたたかわせたという。

赤穂春雄などのペンネームで「坊やの復讐」をはじめ、喜劇やチャンバラもののシナリオを自らも書いた。

現代劇でリード

映画界ではしばらく「時代劇の日活」対「現代劇の松竹」の争いが続いた。

しかし、次第に「流行・風俗」を反映した松竹の現代劇がリードするようになる。その決定打は、1931年(昭和6年8月1日)に東京・帝国劇場で公開された日本初の本格トーキー映画「マダムと女房」だった。

大船撮影所

トーキー時代に対応すべく、松竹は神奈川県鎌倉市(当時:鎌倉郡大船町)に9万坪(約30万平方メートル)の土地を買収する。撮影所建設に取り掛かる。

3万坪を撮影所にあて、あとは宅地として売り出した。「東洋一」と言われた大船撮影所がオープンしたのは、1936年1月だった。

サイレントからトーキー

映画界はサイレントからトーキーへと急激に変わっていった。

1935年(昭和10年)3月、東京・本郷の城戸四郎邸に深夜、二人の男が日本刀できり込みに来る。障子や畳をズタズタにしただけでけが人はなかったが、トーキーによって職場を追われた映画館楽士の争議団関係者の犯行だった。

戦時下で

1939年(昭和14年)10月に映画法が成立し、映画の製作と配給が政府の統制下に置かれた。「大日本映画協会」が発足。

さらに、戦時体制が強まると、映画界も企業統合が行われ、1941年(昭和16年)12月に製作は松竹、東宝、大映の三社に、また翌1942年(昭和17)年4月には興行・配給は紅白の二系統に統合された。こうして国策映画、戦意高揚映画作りの道が始まる。

1943年にはは、戦後日本映画を背負う二人の監督がデビューした。3月に「姿三四郎」で東宝から黒沢明、7月には「花咲く港」で松竹から木下恵介。2人はこの年、山中貞雄賞を分け合った。

「花咲く港」は小沢栄(のちの栄太郎)と上原謙のペテン師が、九州・天草で純朴な島民をだまし、ひともうけをたくらむが、戦争が始まり、ペテン師もお国のため造船産業に協力することになる喜劇だった。

木下監督は陸軍軍人一家の一代記「陸軍」も作るが、出征する息子を追って母親が涙で見送るシーンが軍部の怒りを買った。「笑顔で送るべきだ」というわけだ。

城戸四郎撮影所長は日本が戦争に突入しても、「映画はあくまで大衆の明日への糧」「生活の苦労を忘れさせるレクリエーションのためのもの」と主張し、軍事物よりも娯楽映画を多く作った。

しかし、甘いメロドラマに客は来ず、時局に乗り遅れたという評判が立ち、撮影所長を辞任する。

演劇では

この間、演劇では「新派」「文楽」「大衆劇」や、新劇との提携、女優養成所の開設、少女歌劇団(後のSKD)創立などさまざまな事業を展した。

震災や空襲によって歌舞伎座をはじめとする多くの劇場を焼失した。戦後のGHQの干渉、映画、テレビなど娯楽の多様化で歌舞伎の危機が何度も叫ばれた。しかし、その都度新しいスターや新作も生まれ、歴代の俳優が名舞台を残した。

東京に住んでいた竹次郎は、来阪するとまず文楽を視察し、出演者に細かな点まで注文をつけた。娯楽の多様化でさらに経営が苦しくなった戦後も一座を抱え、「文楽は会長(竹次郎)の道楽」とまでいわれた。

戦後

劇場を失う

松竹は、都市部の主な大劇場を焼失した。ライバルの東宝が主力劇場の戦災をまぬがれたのとは対照的だった。

組合結成

戦後は民主主義が叫ばれ、労働組合の結成が活発になった。

松竹では、映画会社では最も早く1945年(昭和20年)11月に大船撮影所で組合が結成された。初代委員長は小津安二郎監督の作品などのシナリオライター、野田高梧さん、副委員長が岸東助・助監督。

公職追放

1947年(昭和22年)12月、公職追放者が発表された。

城戸四郎
大谷博
白井信太郎
など計5人が対象となった。

大谷竹次郎は社長だったが、映画担当ではなかったとして、公職追放を逃れた。「社長たちの映画史」(著者:中川右介氏)によると、城戸四郎氏は大谷竹次郎氏の追放を避けるため、松竹の映画の責任はすべて自分にあると申し出たためだったという。

レッドパージ

1950年(昭和25年)秋に追放は解除となる。

が、占領政策の転換の結果で、今度は共産党員ら左翼活動家が追放される。レッドパージである。

松竹では家城巳代治、小坂哲人(監督)、岸東助、森園忠(助監督)、神田隆(俳優)らであった。


白井松次郎

(しらい・まつじろう)

【期間】
1925年9月~
1936年2月

【生まれ】
1877年〈明治10年〉12月13日

【死去】
1951年1月23日(享年73歳)。会長在任のまま死亡

※京都・三条柳馬場で9人兄弟の長兄として生まれる。

19歳で興行師として伊勢に巡業。2年後白井家の養子になる。

25歳で新京極に「明治座」を開場し、松竹合名会社を始める。

興行界に進出した後は、人気のあった新派劇を上演。さらに白井は人気絶頂の鴈治郎と提携。大阪だけでなく、東京の歌舞伎座にも出演させている。

弟が関東に行った後も、関西に残った。戦争で焼け野原になった大阪で、真っ先に不採算部門の「文楽座」を再建した。

戦災で消失した「角座」「中座」などの復興にも尽くした。

【2回目】大谷竹次郎

(おおたに・たけじろう)

【期間(2回目)
1936年3月~
1955年2月

城戸四郎

(きど・しろう)

【期間】
1954年10月30日~
1960年4月

【生まれ】
1894年(明治27年)

【死去】
1977年4月(享年82歳)

※創業者・大谷竹次郎の娘婿。松竹映画の黄金期を築いた。

28歳で創業者・大谷竹次郎氏の愛人である城戸ツルの娘婿になった。「蒲田調」「大船調」と呼ばれる松竹の明るく楽しい路線を築いた邦画界の偉大なリーダー。

社長就任時の年齢

60歳

社長就任前の役職

副社長

前任者の新ポスト

大谷竹次郎社長は会長に

人事の背景

大谷竹次郎社長が歌舞伎の経営に専念するため会長になった。

入社年次

1922年

出身校

東京大学(法学部)(当時:東京帝国大学) ※1919年卒業

入社理由

大学時代は新聞記者を志望していたが、小さな貿易会社に就職。

その後、国際信託銀行(のちの第一信託、みずほ銀行)に転職。近くに住んでいた松竹の創業者・大谷竹次郎氏(社長)から入社を勧められた。

創業者の愛人の娘婿に

松竹入社後、大谷の愛人である城戸ツルの娘婿になる(すなわち、大谷家の婿入り)。城戸家に入籍。当時28歳。

出身地

東京・築地

生誕・出生

西洋料理の元祖と言われた「精養軒」経営者・北村宇平の四男として生まれた。

子供時代

朝海小学校と日比谷の東京府立第一中学校では成績トップ。第一高校では野球部キャプテン

学生時代

大学時代は、歌舞伎や活動写真の鑑賞を趣味とする。新聞記者を志す。

社長就任前の略歴・実績

「蒲田調」を確立

1924年、蒲田撮影所長に就任した。脚本を重視。都会の市民の暮らしをユーモアと情感を込めて描く「蒲田調」を確立した。

戦争協力に消極的

戦時中、戦意高揚の作品づくりに消極的だったとされる。戦争に突入しても、「映画はあくまで大衆の明日への糧」「生活の苦労を忘れさせるレクリエーションのためのもの」と主張し、軍事物よりも娯楽映画を多く作った。
しかし、甘いメロドラマに客が集まらず、時局に乗り遅れたという評判が立ち、撮影所長を辞任したほどだった。
それにもかかわらず、戦後、公職追放の対象となった。上述の通り、創業者・大谷竹次郎氏の追放を避けるため、松竹の映画の責任はすべて自分にあるという立場をとったという。~出典「社長たちの映画史」(著者:中川右介氏)

公職追放と復帰

1947年12月に公職追放の対象になり辞任。1950年に追放が解除され、同年10月に相談役として復帰した。

副社長に

1953~54年、「君の名は」などの連続ヒットで絶頂に

1951年4月、副社長に昇格。

1953年、映画「君の名は」が空前の大ヒットとなる。 翌1954年までの3部作で計9億円を稼いだ。 その資金で、「松竹会館」を建設した。 「君の名は」はメロドラマであり、城戸氏が推進してきた「大船調」の成功の象徴となった。
1953年11月には、後に世界で伝説的な名作として称えられることとなる「東京物語」(小津安二郎監督)が公開。配収1億3000万円を稼いだ。
1954年には、美空ひばり主演「伊豆の踊り子」、木下恵介監督「二十四の瞳」もヒット。大谷竹次郎総指揮の「忠臣蔵」も大ヒット。

社長としての実績・取り組み

就任後、社内の機構改革を実施。営業部門と労務部門を強化した。映画の製作・営業の責任者として高村潔専務を起用。労務担当には、大阪支社長だった奥山市三専務(後に社長となる奥山融氏の父親)を充てた。

お家芸の女性路線が不振

1958年(昭和33年)をピークとして、日本映画の興行人口は、急速に下降する。 中でも松竹はお家芸の女性路線が不振を極めた。

東映の快進撃にやられる

東映の快進撃にやられた。

創業会長が映画の総責任者に

1958年4月の役員会で、大谷竹次郎会長(当時81歳)が映画製作の総責任者になることが決定した。 同時に、隆三から常務から専務へ昇格。製作担当兼大船撮影所長となった。

「楢山節考」をめぐる路線のブレ

1958年6月公開の「楢山節考」(木下恵介監督)は、松竹にとって数少ない大ヒットだった。
城戸氏は反対していた。大船調とは異なる暗いドラマだった。
大谷竹次郎氏がOKを出した。

1960年、無配に転落

1960年4月の決算取締役会で、無配に転落することが決定。
前年の1959年9月に9億2400万円を増資したばかりだった。

責任をとって社長辞任

責任をとって社長を辞任。相談役へと退いた。

松竹ヌーベルバーグ

松竹ヌーベルバーグが起きる。 大島渚監督の第二作で、1960年6月公開の「青春残酷物語」が発端となった。

1963年12月に社長に復帰

1963年12月に社長に復帰することとなる。(


大谷博

(おおたに・ひろし)

【期間】
1960年4月~
1961年8月

※創業者・大谷竹次郎の娘婿。二代続けて娘婿の社長就任。在任期間はわずか1年4か月。ストライキの責任をとって辞任。

前社長の城戸氏が推進したディレクターシステムを否定し、プロデューサーシステムを入れようとした。

社長就任時の年齢

50歳

一族・家系

水野直(貴族院議員、子爵)の次男として生まれた。松竹創業者・大谷竹次郎の長女と結婚し、娘婿になった。

  • 妻:大谷トシ(創業者・大谷竹次郎の長女)
  • 養父:大谷竹次郎
  • 実父:水野直(貴族院議員、子爵)
  • 実母:水野貞子(水野忠敬の娘)

社長就任前の役職

監査役(常任)

前任者の新ポスト

城戸四郎社長は相談役に

人事の背景

城戸社長が無配転落の責任をとって辞任。

略歴

  • 松竹常務
  • 松竹専務(~1948年)
  • 1948年 武蔵野映画劇場会長
  • 1954年10月 松竹常任監査役

公職追放

1947年(昭和22年)12月、公職追放された。松竹をいったん去る。

「京都映画」の社長

1952年10月に設立された京都市の下加茂撮影所を運営する「京都映画」の社長に就任。

1954年10月、松竹本社の監査役に就任。

社長時代の実績

・会社組織をスリム化して、本社の6階と7階を空きフロアにする。そこに料理教室をつくった。

・役員や部長の車の使用を禁止。ハイヤー会社を始めた。

・監督中心の映画作りをやめて、プロデューサー主導に転換しようとした。本社の各部門から有能な部長クラスを、プロデューサーに起用した。

・制作業務は、松竹撮影所の所長の細谷辰雄氏に任せていたという。

ヌーヴェルバーグ挫折と大島退社

1960年6月に公開された大島渚監督の「青春残酷物語」(1960年)が大ヒットした。

若手の吉田喜重や篠田正浩を起用し、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と称して、政治的メッセージを掲げた過激な映画を製作した。

1960年10月9日、大島の「日本の夜と霧」(1960年)を公開したが、封切り4日間で上映打ち切り。

松竹は興行の不振を理由に挙げた。

が、その日は、社会党の浅沼稲次郎委員長が日比谷公会堂で演説中、右翼少年に刺殺された1960年10月12日の翌日だった。

大島は、「ある種の政治的配慮がなされたのでは」と憤り、翌年1961年、松竹を退社する。

赤字

1961年には8億3000万円の赤字を計上。

1962年になっても正月興行は大不振で、テレビ普及の影響をもろにこうむっていた。

本社内に料理学校

本社内に料理学校を作ったり、松竹タクシーを経営するなど合理化に手を染めていた。

「定年50歳」を提案

1962年2月に組合に対し、定年を60歳から50歳に切り下げる案を提案する。

ストライキ

松竹労組はこれに猛反発してストライキを敢行した。

1962年3月8日、撮影所(大船、京都)、本支社、全国直営映画館、歌舞伎座などの劇場で一斉にスト入り。

24時間ストだった。

辞任

大谷博社長と、大谷隆三副社長は1962年3月の役員会で辞任を申し出た。

大谷博は、松竹から離脱した。

副社長の大谷隆三も辞任

副社長の大谷隆三(創業者・大谷竹次郎の次男)も辞任した。

後任は父親

85歳の大谷竹次郎会長が老骨にむち打って、8年ぶりに社長に復帰した。

相談役になっていた城戸四郎氏も、副社長に復帰した。

定年切り下げは、退職者1人当たり3万円をせん別として支給することで労使が合意。

1962年5月から55歳定年が実施された。


【3回目】大谷竹次郎

(おおたに・たけじろう)

【期間(3回目)】
1961年9月~
1963年8月

※なんと86歳で社長復帰。3度目。

8年ぶり復帰となった。城戸四郎氏も相談役から副社長に復帰した。

スト闘争を続ける労働組合に対して、新しいリストラ案を提示した。その内容は「定年は55歳とし、退職者一人あたり2万円を餞別として支給する」というもの。組合側も承諾した。

映画の衰退が直撃

テレビ登場に伴う映画衰退の波に襲われた。映画大手の中でもとりわけ落ち込みが酷(ひど)かった。1961年、1962年は大手5社の中で配給収入が最低だった。

「松竹ヌーベルバーグ」という追い風もあったが、その中心人物である大島渚監督らが退社してしまった。

1962年には支払いの遅れが発生。年の瀬には、ギャラを請求するマネジャーや出入り業者が本社に押しかけた。

2年で会長に退く

約2年社長を務めた後、88歳になったのを機に、会長に退き、演劇に専念することにした。


【2回目】城戸四郎

(きど・しろう)

【期間】
1963年12月6日~
1971年8月

※1963年12月6日、2度目の社長就任。

副社長から昇格。映画製作部門を直轄することとなった。

小津安二郎監督が死去

1963年12月12日、松竹映画を支えてきた小津安二郎監督が他界。享年60歳。

葬儀は1963年12月16日に松竹と日本映画監督協会の合同葬として築地本願寺で営まれた。葬儀委員長は、城戸社長が務めた。

京都撮影所の閉鎖

1964年には松竹の人気スター、佐田啓二さんが自動車事故で他界。

1965年4月、京都撮影所の閉鎖を発表。「下鴨」「太秦」の2か所合計で43年間にわたる松竹京都撮影所の伝統に幕が下りた。閉鎖業務を、白井昌夫専務(白井松次郎の次男)に任せた。

「寅さん(男はつらいよ)」誕生を支援

1969年、「男はつらいよ」の第一作を公開。その後、「寅さんシリーズ」として長年にわたり松竹のドル箱となった。山田洋次監督は「重役が反対した寅さんを撮ることができたのも、城戸さんがひとこと言ってくれたおかげ」と証言している。そして「長い経験からくる勘のようなものがあったのかもしれませんね」と分析している。

逝去・葬儀

1977年4月18日、死去。享年82歳。心筋梗塞により庭で倒れた。当時、現職の会長だった。


大谷隆三

(おおたに・りゅうぞう)

【期間】
1971年9月~
1984年2月

【生まれ】
1919年1月

【死去】
2000年2月23日。享年81歳。

※創業者・大谷竹次郎氏の二男。現役社長の時代に自宅に放火。住み込みのお手伝いさんが焼死するという大事件を起こした。有罪判決を受けた。

副社長から昇格

社長就任時の年齢

52歳

入社年次

1941年(新卒)

出身校

慶応大学(経済学部) ※1941年卒業

略歴

1950年10月の役員改選で役員になった。同時に、京都撮影所長に就任した。

1958年4月、常務から専務へ昇格。製作担当兼大船撮影所長となった。

専務から副社長に昇格。

ストライキの責任を取る形で、1962年3月の役員会で、大谷博社長と共に、副社長から辞任した。とりあえず、歌舞伎座の社長に就いた。

1968年、松竹の副社長に復帰。

1971年社長に昇格。

出身地

東京

実績

2人の副社長に支えられた。演劇事業を永山武臣・副社長(次の社長)が、映画を奥山融・副社長(次の次の社長)が補佐した。

14年ぶり復配

1974年、14年ぶりに復配を達成する。

ショッピングセンター開発

大船撮影所内ショッピングセンター開発に尽力した。

自宅を放火

1984年、自宅に放火し、家政婦が焼死

1984年2月8日、東京・品川区の自宅である豪邸に放火するという大事件を起こした。社長就任から14年目のことだったのことだった。家政婦さんが焼死した。

1984年2月15日、警察に出頭。放火容疑で逮捕。社長を辞任。同年5月25日の取締役会で永山武臣副社長の社長昇格が決まった。

裁判で懲役3年(執行猶予5年)の有罪判決を受けた。

趣味

ゴルフと酒が好きで、特に酒ではアルコール依存症になったとされる。

死去と葬儀

2000年2月23日午後3時17分、心不全のため東京都港区の病院で死去。享年81歳。

2月25日に親族のみで密葬が行われた。葬儀・告別式は「大谷家」葬として2000年3月21日午前10時半から中央区築地3の15の1、築地本願寺第2伝道会館で行われた。葬儀委員長は永山武臣・松竹会長(当時)。

喪主は、長男・大谷信義(のぶよし)氏(当時の松竹社長)が務めた。

死亡時の役職

歌舞伎座取締役相談役


永山武臣

(ながやま・たけおみ)

【期間】
1984年3月~
1991年2月

【生まれ】
1925年8月

【死去】
2006年12月。享年81歳。

※創業一族以外から初の社長。入社以来、演劇畑一筋。

戦後、低迷が続いた歌舞伎界を立て直し、隆盛につなげた。歌舞伎の海外公演にも力を入れた。

社長就任時の年齢

59歳

社長就任前の役職

副社長

人事の背景

前社長(創業者の息子)が放火事件を起こしたため、急遽、副社長から昇格した。

入社年次

1947年10月(当時・京都大学4年生)

出身校

京都大学(経済学部)=当時:京都帝国大学= ※1948年卒業

入社理由

文学青年だった学生時代、歌舞伎見たさに松竹で警備のアルバイトをした。戦災で焼け残った東劇の夜警を務め、それが縁になって松竹に入社。

略歴

演劇畑一筋

東京劇場や歌舞伎座の監事室を経て、1958年に演劇部のプロデューサーとして製作を担当した。

創業者・大谷竹次郎氏の片腕として活躍。その薫陶を受け、俳優との付き合い方や興行のやり方などを学んだ。

1967年、42歳の若さで取締役に就任。

1969年に大谷氏が亡くなった後は、演劇部門における事実上の後継者の立場になった。

出身地

東京

家系

軍人の家系。祖父、父は男爵。

中学・高校

学習院初等科・高等科

歌舞伎との出会い

歌舞伎を初めて見たのは、1937年(昭和12年)11月の十五世羽左衛門、六代目菊五郎、七代目幸四郎らの『忠臣蔵』。 1947年(昭和22年)に東京劇場の『篭釣瓶』で、芝翫(現・歌右衛門)の八ッ橋に魅せられた。

就任前の実績・評価・評判

演劇畑一筋。松竹演劇を長く支え続けた。

三島由紀夫に歌舞伎台本の執筆

1953年、学習院初等科時代からの友人・三島由紀夫に歌舞伎台本の執筆を依頼。

積極的に海外公演

1960年(昭和35年)の米国公演、1961年の旧ソ連公演をはじめ、積極的に海外公演を行った。 このうち1960年の日米修好百年記念に行った勘三郎、歌右衛門、松緑らの訪米公演の感激は格別だったという。

費用の算出も含めて、海外公演の先頭に立って歌舞伎の紹介に努めた。

襲名披露を成功

歌舞伎では、1973年の7代目・尾上菊五郎、1981年の高麗屋3代(松本白鸚、松本幸四郎、市川染五郎)、1985年の12代目・市川團十郎らの襲名披露興行の陣頭指揮を執った。

襲名の「口上」では大半の歌舞伎俳優が「松竹・永山会長のお勧めにより、襲名させていただく運びとなりました」と話すなど、影響力の強い人だった。

幅広い分野で活躍

歌舞伎だけにとどまらず新派、松竹新喜劇、ミュージカル、翻訳劇など幅広い分野で活躍。

社長時代の実績

スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」

1986年に市川猿之助のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」初演では、新しいスタイルの歌舞伎が観客にどこまで受け入れられるか見えない中で、永山氏は東京での2カ月ロングランから名古屋、京都、再び東京と回る異例の興行日程を断行。大好評を博してファン層拡大につなげた。

東京・歌舞伎座で年間を通じて歌舞伎

1990年(平成2年)から東京・歌舞伎座で1年を通して歌舞伎を上演する方式に変えた。毎月の公演は至難だが、「歌舞伎座では歌舞伎を」という信念から英断した。

世界展開

歌舞伎の海外公演の数は生涯で30余カ国に上った。その功績で文化功労者に選ばれた。

社長退任後は会長に

1991年からは会長を務めた。

社長退任後の実績

2001年には松緑、海老蔵、勘三郎、藤十郎の襲名を一斉に発表。2002年からの相次ぐ披露興行で若いファンも取り込み、歌右衛門ら戦後の大物俳優らの死去による観客の歌舞伎離れを食い止めた。

奥山氏の追放時の取締役議長

奥山氏に社長職を譲って会長になった後も、取締役会の議長に残った。 奥山氏を追放する社内クーデター(1998年)の際にも、取締役会の議長を務めた(当時72歳)。

受賞歴・受章歴

1990年に菊池寛賞。1995年に文化功労者。

退任後の活動

2005年の歌舞伎の世界遺産登録に尽力した。

著書

「歌舞伎五十年」(日本経済新聞社)

訃報・葬儀

2006年12月13日午前7時48分、急性白血病のため東京都内の病院で亡くなった。享年81歳。

通夜と葬儀は青山葬儀所(東京都港区南青山2の33の20)で行われた。喪主は長男・永山耕三(ながやま・こうぞう)氏(フジテレビ・ゼネラルプロデューサー)が務めた。

弔問

東京・渋谷区の自宅には、以下の弔問客が次々と訪れた。

  • 人間国宝の中村雀右衛門・日本俳優協会会長(当時86歳)
  • 人間国宝・中村富十郎(当時77歳)
  • 市川團十郎(当時60歳)
  • 松本幸四郎(当時64歳)
  • 女優・森光子(当時86歳)
  • 水谷八重子(当時66歳)
  • 波乃久里子(当時61歳)

また、小泉純一郎前首相からは弔花が届けられた。

中村雀右衛門(歌舞伎役者、当時:日本俳優協会会長)のコメント

「お若いころから今日まで60年になるおつきあいになりますが、いつも明るく気さくにお話をなさる親しみ深い方。歌舞伎の海外公演においても、大きな成果をあげるに至った実績は歌舞伎にとり素晴らしいことだと思っております」

社葬

松竹の社葬は2006年12月28日正午から、東京都中央区築地3の15の1 築地本願寺第2伝道会館で行われた。葬儀委員長は松竹・迫本淳一社長が務めた。


奥山融

(おくやま・とおる)

【期間】
1991年2月~
1998年1月

【生まれ】
1924年1月

【死去】
2009年11月。享年84歳。

※社内クーデターで失脚。息子は奥山和由(かずよし)

2人続けての非世襲の社長となった。ただし、父親は松竹のサラリーマンで、役員にまでなった人物。

大和証券から転職ということもあって、映画業界の中ではずばぬけて資金作りに明るかったと言われる。映画事業で息子・奥山和由(かずよし)氏をプロデューサーに起用し、様々なヒット作や名作を生んだ。だが、親子による強権政治と業績悪化が嫌われ、最後は社内クーデターで失脚した。

社長就任時の年齢

67歳

社長就任前の役職

副社長

前任者の新ポスト

永山武臣社長は会長に

人事の背景

前任の永山社長の同期。永山氏は演劇が専門で、映画事業は奥山氏に任せていた。

出身校

京都大学(法学部) ※1947年卒業

新卒での就職先

京大卒業後の4年間は大和証券に勤務。

入社理由

1951年松竹入社。松竹大阪支店長だった父・市三氏(その後専務)に誘われた。

略歴

国際部部長、常務、松竹富士社長、松竹映像社長、松竹副社長を歴任。

1991年には黒沢明監督の「八月の狂詩曲」のエグゼクティブプロデューサーを務めた。

出身地

京都市

実績

息子・奥山和由氏を主力プロデューサーに

二男の奥山和由氏を主力プロデューサーとして重用し、「ハチ公物語」(1987年)や「遠き落日」(1992年)などの映画を成功させた。北野武や竹中直人らをいち早く映画監督に起用する先見の明や話題作りのうまさもあって、異色プロデューサーとして話題を集めた。

北野監督デビュー作品「その男、凶暴につき」(1989年)も和由氏が自らプロデュース。「松竹で『寅さんシリーズ』以外にヒットを生み出せる唯一の男」とも呼ばれた。

1953年(昭和28年)12月生まれ。学習院大在学中から助監督を務め、1979年に松竹入社。

<奥山和由氏プロデュース代表作品>
作品名 公開年 監督 出演
凶弾 1982年 村川透 石原良純
古尾谷雅人
海燕ジョーの奇跡 1984年 藤田敏八 時任三郎
藤谷美和子
恋文 1985年 神代辰巳 萩原健一
倍賞美津子
ハチ公物語 1987年 神山征二郎 仲代達矢
八千草薫
226 1989年 五社英雄 萩原健一
三浦友和
その男、凶暴につき 1989年 北野武 ビートたけし
白竜
グッバイ・ママ 1991年 秋元康 松坂慶子
緒形拳
無能の人 1991年 竹中直人 竹中直人
風吹ジュン
外科室 1992年 坂東玉三郎 吉永小百合
中井貴一
遠き落日 1992年 神山征二郎 三田佳子
三上博史
いつかギラギラする日 1992年 深作欣二 萩原健一
荻野目慶子
ソナチネ 1993年 北野武 ビートたけし
国舞亜矢
RAMPO 1995年 奥山和由 竹中直人
本木雅弘
SCORE 1996年 室賀厚 小沢仁志
江原修
栄光と狂気 1996年 原田眞人 コリン・ファーガソン
羽田美智子
大統領のクリスマスツリー 1996年 奥山和由 羽田美智子
別所哲也
瀬戸内ムーンライトセレナーデ 1997年 篠田正浩 長塚京三
岩下志麻
うなぎ 1997年 今村昌平 役所広司
清水美砂

「シネマジャパネスク」は興収が低調

1997年春から「シネマジャパネスク」という事業をスタート。衛星放送事業と映画製作を結び付け、低予算で、作家性の高い映画や新人作品を量産。全国の20~30館のみで小規模上映するという計画だった。

11本を製作。このうち「うなぎ」(今村昌平監督)がカンヌ映画祭で最高賞(パルムドール)を受賞。「東京夜曲」「CURE」など質の高い作品が生まれた。しかし、収益面では低調だった。

海外プロジェクト失敗

1995年、映画基金を設け、一般企業から資金を幅広く導入。50億円もの資金を集めた。「栄光と狂気」「大統領のクリスマスツリー」などの海外との合作を手掛けたが、興行収入はいまひとつだった。

社外とのトラブル

映画「RAMPO」では、和由氏が黛りんたろう監督を突然解任。和由氏が自らメガホンを撮るという事態になった。黛氏は憤りを隠せず、会見してその「横暴」を訴えた。

邦画3社で「1人負け」に

1997年度は映画人口も7、8年ぶりに1億3000~1億4000万人に復活。東宝は「もののけ姫」が配給収入105億円と空前の大ヒットを記録し、1997年の年間配収が193億円の新記録。東映も「失楽園」を配収23億円とヒットさせ、年間配収が約80億円に達した。これに対して松竹の配収は34億円。1997年2月決算で経常利益も前年より6割減って約5億7000万円にとどまった。

お手盛り人事

人事に関しては、和由氏がスカウトしてきた日活出身者を取締役に登用。制作部門でも社外からのプロデューサーを次々起用した。親子で独自の「取り巻き」を築いて、社内の意見には耳を傾けようとしなかった。

和由氏は、年上の管理職でも平気で公衆の面前で怒鳴り上げるなど、プライドを傷つけられた社員は多かったという。

解任クーデター

取締役会で緊急動議

1998年1月19日午前10時から松竹本社8階の会議室で取締役会がスタートした。16人が出席。

会議の名目は各分野の現状報告。奥山父子も落ち着いた表情で席に着いた。議長は永山武臣会長(当時72歳)。

永山会長が議事の開始を告げると、大谷信義専務が「緊急動議があります」と立ち上がった。声は緊張のためか震え気味だったと伝えられている。 「経営不振の責任は人事を壟断(ろうだん)してきた奥山社長および奥山専務にあります。解任を求めます」。

16人中、11人が賛成

とたんに一部の取締役から「解任賛成」の声とともに手が上がった。起立によって「決」を採ることになる。 採決の結果は、16人のうち11人が賛成。3人が棄権だった。 反対は奥山社長、和由専務の2人だけだった。

賛成した中には奥山父子の側近とみられていた取締役もいた。奥山社長はぶ然とした表情で「何だ、お前も賛成なのか」と言ったとされる。

永山会長が「閉会」を告げ、取締役たちはそのまま退席。わずか2分の解任劇だった。残された奥山父子も力なく立ち上がると、会議室を出た。

労働組合や課長会も解任を支持

午後には、部次長会、課長会、組合がそれぞれ解任を全面支持する決議文を社内に配布した。

兼任ポストも解任

奥山は社長就任以来、映画製作・配給の全権を一手に握った。第一興行、松竹富士、大船撮影所など11社で、会長、社長などのトップを兼任していた。これらの職も相次いで解任された。兼務していたポストは以下の通り。

  • 松竹株式会社代表取締役社長(映像本部長)
  • 松竹第一興行(株)代表取締役社長
  • 中日本興業(株)取締役
  • 鎌倉ケーブルコミュニケーションズ代表取締役
  • 松竹富士(株)代表取締役会長
  • (株)衛星劇場代表取締役会長
  • (株)京都ケーブルコミュニケーションズ代表取締役社長
  • (株)神奈川メディアセンター代表取締役社長
  • (株)大船撮影所代表取締役社長
  • (株)ムービーチャンネル取締役会長
  • 松竹京都映画(株)代表取締役社長
  • (株)松竹シネマークシアターズ代表取締役社長

大谷新社長が会見

後任社長には、創業者の孫で、解任の動議を発した大谷信義氏(当時52歳)が就いた。大谷・新社長は1998年1月19日午後7時すぎ、直営の松竹セントラルで会見。和由氏プロデュースの作品について「採算が取れない作品が多い。無謀な投資を強いられていた」と話し、「その影響でほかの邦画、洋画の編成にも悪影響が出ている」と語った。

和由氏に不満

さらに和由氏の人事についても「場当たり的人事があり、閉そく感があった」と話した。「融氏には長年御指導いただき、好意を感じているが、和由氏に対しては、人事、運営面では以前から疑問を持っていた」と反感を隠さなかった。


大谷信義

(おおたに・のぶよし)

【期間】
1971年9月~
1984年2月

【生まれ】
1945年6月

※創業者・大谷竹次郎の孫。大谷隆三(放火事件)の長男。解任クーデターで就任。

社長就任時の年齢

52歳

社長就任前の役職

専務

他の主な役員人事

奥山社長、和由専務は非常勤の取締役に退いた。

人事の背景

後任の大谷専務は、これまで演劇、映画部門を幅広く歴任。 大きな成果は挙げていなかったが、「反奥山」のみこしとして担がれた形となった。 創業一族の出身者ながら奥山父子に軽んじられてきたことから同情も集まっていたようだ。

入社年次

1968年(新卒)

出身校

慶應大学(法学部卒) ※1968年卒業

略歴

取締役、常務を経て1984年5月から専務。

就任時の抱負

昇格した取締役会の後、東京都内で2度にわたり緊急会見。「奥山親子が担当していた映像部門は両氏の独占支配状態になり、頻繁な人事異動を繰り返しては無謀な投資を継続しており、放置できなかった」と説明した。

今後の経営方針について「社内外の力を結集できるようにして1本1本丁寧に売っていく。作品的には山田洋次監督を中心とした、松竹伝統の『大船調』を継承した上でバラエティーに富んだ作品を作っていきたい」と語った。

出身地

東京

社長時代の実績など

奥山体制から脱却

1998年2月、奥山体制から外された部長級を本社の主要部門に復帰させる人事異動を行った。

「衛星劇場」に戻す

CSテレビに映画を流す関連会社「衛星劇場」は1997年、1億円以上の経費をかけてチャンネル名を奥山氏親子が推進した「シネマジャパネスク」に変更していたが、1998年10月に「衛星劇場」と元に戻した。

大船撮影所を売却

本社ビル、大船撮影所などの資産売却を進めた。

鎌倉シネマワールド閉鎖

「鎌倉シネマワールド」を閉鎖した。

大阪・浪花座を閉鎖

子会社の芸能事務所「松竹芸能」の活動拠点だった大阪の演芸場「浪花座」を閉鎖。 土地を56億円で売却した。 歴史のある演芸場だった。(出典:雪本剛章→)

松竹富士を清算

洋画配給の松竹富士を清算した。

その後

2024年5月28日付で取締役を退いた。当時78歳。名誉会長職は続投。


迫本淳一

(さこもと・じゅんいち)

【期間】
2004年5月27日~
2023年5月

【生まれ】
1953年4月

※城戸四郎・元社長の孫。19年の長期政権に

奥山社長が解任された後、業績の赤字転落などに揺れる映画界のしにせ松竹の再建の「切り札」として役員に迎え入れられた。

社長就任時の年齢

51歳

社長就任前の役職

副社長

入社年次

1978年4月、松竹映画劇場入社

出身校

慶応大学(法学部) ※1978年卒業

略歴

1978年4月、松竹映画劇場(不動産業)入社

1991年に退社し、弁護士登録。

1993年4月、三井安田法律事務所に入所

1997年5月、米UCLAロースクールで法学修士

1997年9月、米ハーバード大学ロースクール客員研究員

1998年5月、松竹の副社長(代表取締役)

就任前

1993年から所属した三井安田法律事務所では、話題になったソニーのワラント債利用の疑似ストックオプション創設にも携わった。一方、海外バレエ団の来日契約や、著作権などカラオケ業界での仕事を手掛け、歌舞伎座(松竹の関連会社)の顧問弁護士を務めた。

弁護士業務のかたわら、米ハーバード・ロースクールの客員研究員を務め、日本と米国を往復する生活を送っていた。

解任クーデータ(1998年1月)の後の1998年2月に松竹側から副社長ポストの打診を受け、1998年5月の株主総会で副社長に就任(当時45歳)。大谷信義社長の補佐役として、経営再建をサポートした。

出身地

東京

座右の銘

「練習は不可能を可能にする」(小泉信三)

祖父・城戸四郎氏について

社長就任時、祖父・城戸四郎氏について「反面教師。祖父は最期までプロデューサー。死ぬ前日まで『頭が痛い痛い』と頭にタオル巻いて映画の脚本読んでいた。脳血栓の症状が表れているのに。ある意味で立派だけど限界もある。僕は現場が動きやすい環境をつくることを優先したい」と語っていた。

心に残る1冊

遠藤周作著『沈黙』

趣味など

ワーカホリックで無趣味だった。弁護士時代は朝3時、4時まで働いた。好きな映画は「ローマの休日」

スポーツ

中学校(慶應普通部)時代は水泳で、大学対抗の早慶戦にも特別出場する快挙を見せた。

尊敬する人物

井上洋治(遠藤周作の信仰仲間で神父、結婚式の司式も依頼)、父・省一(本州製紙・元専務)

家族

妻、息子3人


高橋敏弘

(たかはし・としひろ)

【期間】
2023年5月~
現在

【生まれ】
1967年9月

※世襲ではない

数字に強い実務派。

社長就任時の年齢

55歳

前任者の新ポスト

迫本社長(当時70歳)は代表権のある会長に

出身校

立教大学(経済学部) ※1990年卒業

子供時代

父親も松竹社員。「銀座松竹」支配人などを務めた。映画を多く見て育った。

入社年次

1990年(新卒)

略歴

財務・経営企画畑

入社後、経理部主計課に配属され、決算業務を担当する。

奥山社長解任クーデター後、大谷信義&迫本淳一コンビで進められた不良債権処理やグループ再編などの経営再建を実務面で支えた。

2004年3月、経理部次長

2005年10月、財務部財務課次長

2006年7月、経営企画部経営企画室次長

2011年1月、グループ企画室長

2011年、映像統括部部長

2011年、映像統括部部長

2015年、取締役

2021年、専務

就任前の実績

映像本部時代に舞台『滝沢歌舞伎』の映画化を実現

出身地

東京都